1994年名古屋生まれ。呼吸器シンガーソングライター、詩人/講演家/イベントプロデューサー。筋ジストロフィーという筋肉が日々衰えていく難病を抱え呼吸器を付けながら、誰も踏み入れたことのない視点から挑戦を続けている。2020年5月から毎回ゲストを呼ぶYouTube投げ銭配信ライブ「If you just smile」を企画し30回目に到達。今後は定期的なライブ出演、MV制作、2ndアルバム制作予定。https://yoro-taka-dream.wixsite.com/aibatakaomi
できないことがあることを受け入れ、前向きにできることを模索する姿勢
相羽さんは小学校までは一般的な公立の学校に通っていたが、徐々に歩行に不具合が生じ、車椅子の生活となっていく中でなんとなく自分が他の人とは違うことに感づいていたという。その後、両親と先生の勧めで中学から特別支援学校に行くこととなり、2年生の時に自身の病名が筋ジストロフィーであることを知った。
「最初はすごくショックだったんです、『なんで僕はみんなと同じなのに、みんなと同じ学校に行けないんだ』と。そのあと支援学校を見学に行って、そこに通う色んな状況の人たちを初めて目の当たりにしました。自分は障がいを持っているという事実を受け入れなければいけない怖さを感じましたね」
しかし特別支援学校で学んだことは今に活かされているとも語る。例えば野球をするにもバットを手で振ることが出来なければ、脇に挟んだり、先生に支えてもらうと振ることが出来るようになる。他にも何か人にやってもらうときのお願いの仕方など、学業というより人とのコミュニケーションや、工夫の術といったことを学んだという。彼にとって出来ていたことがだんだんと出来なくなることは当たり前。そのできないことをどのようにできるようにするのか、前向きにできることを模索する考え方の源流がここにある。
人生の最大のターニングポイントがこの障がいを自覚した時のことだと言う相羽さん。その時の彼の心情は想像にあまりあるが、他人と違うことに対して恐れや恥じらいを感じてしまうことは、特に同質性を重んじる日本社会においては誰しもが理解できるのではないだろうか。「どのようにしてそれを乗り越えていったのか」を聞いてみたところ、それは中学2年生の頃に起きた健常の人たちと接する中で変化したようだ。
「初めて携帯電話を買ってもらって、モバゲーのチャットで知らない人と仲良くなるというコミュニケーションを覚えたんですよ。そのうちその人たちと会いましょうとなるんですけど、そこでは障がいに興味を持たれることがないし、あんまり深いとこまで話をしなくてもいい。恥ずかしくなる必要がないことに気づいて、そこから行動力がつきました」。他者との関わり方において兆しが見えた中学生時代。それが高校生の頃になるとさらにパワーアップしたようだ。
「当時流行っていたAKB48に自分もハマったんですが、ネットで仲良くなった人と握手会に誘われて『僕、車椅子ですけどいいですか?』と聞いても『いいよー』って感じで、なにも気にせず手をかしてくれるんです。共通の趣味で繋がっているから障がいのことを相手が気にしない。そのことに僕は救われたんですよね。学校以外でも助けてくれる人、頼れる人がいるんだと初めて知った。そこから『トイレ手伝ってもらってもいいですか』、『ちょっと拾ってください』と全然知らない人にお願いできる根性がどんどんつきましたね。逆に今はもうちょっと気遣っていますが(笑)」
つまりそれまで障がいが自分を覆い隠すように影を落としていたが、そこに構わず個人に目を向けてくれる周りの環境によって、障がいを自身の脇に寄せることが出来た感覚だ。
「自分の恥ずかしいところやマイナスなことに向き合い過ぎてはいけないと思っていて。解決策が見えずに、闇に入り込んでしまうばかりなので。だから自分の臭いところはなるべくフタをして見ないようにしてきました。いいところや強みだけに向き合って、追求できればいいなと」
「ある時期までずっと生きる意味について考えていたんです。『なぜ僕がこの世界に生まれてきたんだろう?』って。でも至った結論は今まで意味を「見つけよう」とし過ぎていた。そうじゃなくって僕が生きているのは意味を「作る」ためなんだ。そう考えるとすごく生きやすくなりましたね」
これらの発言にも彼の潔い折り合いのつけ方と、どうにかポジティブに転換していく思考が伺える。
自分のやりたいことや、得意なことは誰かの一言がきっかけで見つけられた
では恥ずかしさを乗り越えた先に彼はどのような意味を作り、そしてやりたいものを見つけていったのだろうか。元々は社会に出ることを意識するまでやりたいはまったくなく、当初は父親が中華料理店を経営していたという理由だけで税務や会計を手伝おうと公認会計士を目指していたという。しかし勉強が嫌いな性分で、特別支援学校でのカリキュラムの限界もあり学力がそのレベルまで追いつかず、あっさり諦めてしまった。そこで高校の先生に進路相談をしたがその障がいの重さから「相羽くんが思ったように働ける場所はないんだ」と言われ、社会的に何にも出来ないことを思い知る。
しかしこのことが「自分にはどんな仕事が出来るんだろう」と初めて具体的に考えるきっかけとなった。先生にも提案されて選んだ進路がナレーターの専門学校。相羽さんは高校3年間、広報委員会としてお昼の校内放送をやっていたこともあり、そこで「声がいい」、「喋り方が上手だよね」と周りから言わたこともあり、声なら使えるという可能性を見出した。
「自分のやりたいことは得意なことにあって、そこに気づけたのはいつも誰かからもらった一言がきっかけだったと思います。今、音楽をやっているのも七尾旅人さんに声をかけられて、一緒に歌ったことがきっかけなので」
しかしその専門学校に入学する際に事件が起こる。そこでは障がいを持った方を受け入れた前例がなく、現場の先生は相羽さんの支援学校を事前に見学に来るなど準備を進めていた。しかし最後の面接で校長から直々に入学拒否を突き付けられたのだ。「あんたみたいなのに何ができるんだ」、「命も長くないのにこんなことやっても仕方がない」と現代では考えられない差別意識に溢れた言葉を浴びせられたという。そこで「馬鹿にすんじゃねえ」とカチンときた相羽さんは母親と一緒に、言われた発言とそれに対する抗議の手紙を書き連ねて学校に送った。その結果すぐに謝罪を受け、また「今後は障がいを持つ人が夢を叶えるために頑張ることが出来る場所にしていきたいので入学してもらえませんか?」と学校から逆オファーを受け、入学に至る。
「今思うとあの校長先生に『ちょっと環境が整えられそうにないのでごめんなさい』と丁重に謝られていたら素直に諦めていたと思います。言われて悔しかったことがバネになって心を燃やしてくれた。そこから障がいのことでこんな辛い思いや挫折を経験する人が一人でも減って欲しいと思うようになりました。ひとつずつ出来ないことを出来るようにしていく僕の挑戦を見てもらって、誰かの希望になりたいと」
時間がないからこそ、できる時間でできることを模索する
筆者が相羽崇巨の存在を知ったのは、YouTubeにアップされていた2019年9月の全感覚祭の動画を見たことがきっかけだ。彼は車いすで七尾旅人と一緒にステージに並び、朗読を披露していた。野外の会場を健やかに突き抜ける声とその詩は、七尾のギター伴奏に支えられながら、時に曲のグルーヴを新たな展開に扇動し、即興のセッションを繰り広げていた。そこでの相羽さんは生命力があふれる紛れもない一人の表現者だったことをよく覚えている。
そんな相羽さんは2020年から本格的にシンガーとして活動を開始。日々を生きていること、君がいること、そんな当たり前のことを丁寧に愛でながら、慈しみながら描いていく。また朴訥な歌が自然体で、まるで彼と会話しているような心地になる。「言葉はまさに言霊だと思っていて、悪いことを言えば悪いことが返ってくるし、いいことを言っていればいいことがきっと返ってくる。だから具体的なエピソードで作ることはないんですよ。自分がこの障がいを持っていることで出会えた、感じられたことや、ポジティブな言葉をなるべく前面に出そうとしています。意味を求めすぎず希望や願望を歌いたい」
11月には初アルバム「花笑みの日々に」を発表した。アコースティックギターの伴奏を主体に、間に詩の朗読も交えられた、一度聴いたら口ずさめるシンプルな楽曲集だ。
「 『花が咲くように人が笑えたらいい』と思ってこのアルバムを作りました。その人がありのままに生きていて欲しいし、自分を好きでいることを諦めないで欲しい。あと人との縁を大切にして欲しい。僕は七尾旅人さんに2019年5月にわざわざ声をかけてもらって今でも親交がある。本当になにがきっかけになるかわからないから、縁が出来るきっかけを探して、磨いて欲しい。そういうことを伝える表現を今後もしていきたいです」
相羽さんは今も障がいと向き合いながら生きている。死の淵に瀕したことも何度だってある。でも「自分の限界には向き合わないようにしています。そうしている時間がもったいない」と力強く語る彼はハードルを乗り越えながら、リミットをすり抜けながら、今をかっこよく生きるために表現を続けている。
「人によく『生き急いでいる』と言われるんですけど、その通り。他の人と比べたら、命は短いということを認めたほうが生きやすくなる。だから『恥ずかしい』なんて言ってる場合じゃないんです。時間が短いからこそ人の10倍努力して、早く良い作品を作らなきゃいけない。今は落ち着いているけどこれがいつ急に状態が悪くなるかはわかりません。筋ジストロフィーは遺伝子の病気なので、個体差があるんですが、母親の弟は同じ病気で27歳で亡くなっていて、2021年に僕は27歳になる。自分は運のある男だと思っているし、何回も瀕死のピンチを乗り越えてきたからもう怖いものはない。怖いのは死ぬことだけかもしれません」
“くだらない話”
作詞:相羽崇巨 作曲:相羽崇巨
https://linkco.re/NceEfADf?lang=ja
たくさんの ひとがいるなかで
この時代に めぐりあえた
好きなね おんがくがいっしょ
それは もう 運命だよね
ぼくのこのきもちを
どうつたえれば きみに届くの
だれか教えてよ
これからきみと なにをはなそうかな
くすぐったいけれど くだらない話をしよう
とおいおかのむこうから
なつかしい ひだまり
きみはね そんな感じのひと
てれくさそうに 笑った
ぼくのこんなはなしを
きみは うれしそうに きいてないけど
本気でおもうんだ
あとどのくらい おはようと言いあえる?
ずっといつまでも くだらないはなしをしよう
本来スポーツは強い弱いではなく、笑顔になり、団結して一つの目標を目指し、個性や自分らしさを認め合えるもの。私自身も支援学校でスポーツの楽しさを知りました。ゆるスポーツが当たり前の風景になりますように。